ようこそゲストさま
e-mail
password
  • 春・秋行楽弁当箱
  • お茶時間-和風編
  • お茶時間-洋風編
  • 温か!耐熱鍋・うつわ
  • 白いうつわ
  • 暮らしの手仕事の道具と雑貨
  • お得なお祝いギフトセット

カテゴリー

作家・窯元一覧

うつわくらぶ京

Facebookページも宣伝

2017年 09月
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

2017年 10月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
SSL GMOグローバルサインのサイトシール

このサイトはグローバルサインにより認証されています。SSL対応ページからの情報送信は暗号化により保護されます。
本サイトでのお客様の個人情報はグローバルサインのSSLにより保護しております。
当サイトはグローバルサイン発行のSSL電子証明書を使用しています。

焼き物探訪

【益子焼きの歴史】

益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が嘉永6年(1853年)に開釜したことといわれています。 嘉永年代、大塚啓三郎をはじめとして農耕のかたわら製陶を行うものたちが那須黒羽藩の支配下にあった益子に代官として着任していた三田弥平の目にとまり、藩の産業として保護奨励の策がとられ、藩の御用掛かりによって江戸市場へと販路を広げました。
豊富な粘土と薪を使って始まり、主に日常台所用品として、一般家庭向きの土瓶や、壷などの産地として発展していきました。

大正13年(1924年)、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は「芸術品」としての側面も、もつようになります。

益子焼きの素朴な製法とその伝統美が広く注目を受けるようになり、濱田庄司氏を慕って若者が増え、活気ある益子になってきました。今日の益子業界は新進の窯元の増加等で350軒以上の窯元を数えるまでに発展し、若手からベテランまでその作風は多種多様です。日常で使う器から、インテリアとしても最適なものまで幅広くあり、厚手で素朴な風合いの陶器は使い勝手がよく、どの器からも益子のおおらかな感じが伝わってきます。

【濱田 庄司】

1894年(明治27年)~1978年(昭和53年)
陶芸家。日本民藝館第2代館長。

1920年、在日中のバーナード・リーチとともに渡英。 登窯を開いて作陶。 帰国後益子に入り、日本各地の雑器のもつ美を 吸収して、質朴で力強い作風を作り上げました。

1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の 窯業科に入学します。 窯業科と言っても製陶を志す者はほとんどおらず、 そこでは主に基礎科学を学びました。 陶芸の勉強は、陶芸作家板谷波山に直接習いに行きましたが、 まだ、本格的には始めませんでした。

1916年(大正5年)、22才の時、東京高等工業学校を卒業し、 高校の先輩であった河井寛次郎の勤めていた京都市立陶芸試験場 に行きました。そこで、2人は競い合うようにして染め付けの技術を研究します。 うわぐすりを一万種以上試作しました。
また、この時代に柳宗悦の家にある バーナード・リーチのアトリエを 訪れたのがきっかけで、柳宗悦と会います。そして、一生の友人となりました。

1920年(大正9年)、イギリス南西部の港町 セントアイブスへバーナード・リーチと共に行き、 そこに窯を作りました。そこで、3年間を過ごし、関東大震災のあった1923年(大正12年) ロンドンで初の個展を開き、大成功を収めます。
日本に帰り、栃木県の益子に住みましたが、それから5年間 自分の窯を持てなかったので、秋から冬の間は沖縄の壷屋という窯で仕事をしました。 そこで、陶器作りのあり方を学びます。

1930年(昭和5年) ついに益子に自分の窯と家を建てます。 常に民藝運動の中心にあって、益子をはじめ各地民窯の実用工芸品の研究・指導にあたり、民藝運動を実作面から支え、 独自の技法と安定した作風を確立しました。

柳宗悦の没後、後を継いで1961年(昭和36年)には 日本民藝館の第2代館長となりました。

濱田庄司は、日本各地・世界各地 の民藝品を蒐集しました。 民藝雑器の持つ素朴で健康なを吸収し、 自分の作品に取り入れることができたのです。
また、陶芸技術を学ぶために精力的に旅行をし、 行く先々で陶器を作りました。 特に沖縄には益子に自分の窯を持った後も度々訪れました。 1977年(昭和52年)には、自作と彼が蒐集した民藝品からなる 益子参考館を開館しました。

【笠間焼きの歴史】

笠間焼は、江戸時代の安永年間(1772~1781年)箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長石衛門の指導で焼き物を始め築窯したこととされています。笠間藩の奨励もあり、窯が増えていきました。

明治に入ると鉄道の開通により東京や横浜にも出荷するようになり、食器以外の雑器で笠間焼きの名が広まりました。戦後は多くの作家が移り住み、伝統にとらわれない様々な焼き物が作られるようになりました。笠間に行けば好きな器が必ず見つかるといわれるぐらい、現在の笠間は多くの作家が多彩な作品を作っています。 笠間の土は粘り強く、大量生産より手作りに向いています。そのため多種類あるのが特徴です。